神戸市看護専門学校20周年
座談会 学校生活の思い出を語る pp29~36
より
日本の看護の発展的な移り変りはこの20年ことに目ざましいものがある。そのあらわれの一つが看護教育のカリキュラムの改正にみられる。そしてこの流れがそのまま、神戸市の医療機関でも肌で感じられる。特に臨床看護の場面では、これが如実にあらわれており,又その大きな担い手である卒業生の皆さんのたゆまぬ努力とも考えられる。この学校も、生まれ、育ち、自立するという経過をたどり、今年は20才、成人式を迎えることになった。現在まで900余名の卒業生を世に送り、283名の在校生との学びの日々は、これらの先輩たちから勇気づけられることが多い。女子の大切な役割となる母親としての育児に專念される卒業生の方も、次の世代を担う子供の成長と,家族の健康は勿論、地域の婦人会等々でご活躍されていると聞く。在学中の楽しかったこと、苦しかったこと、現在感じていることなど、創立20周年を記念して、いろいろとお聞きしてみた。
―学校開設当初の頃―
司会 今日はお忙しいところ、同窓の皆さんに、遠くは広島からもおいで頂き、この会を開けることをたいへん嬉しく思います。
学校も創立20周年を迎えましたが、皆さんそれぞれに在学中の思い出などあろうかと存じます、また現在学校にいる学生の皆さんには、今の学校の様子など、話していただきたいと思います。
限られた時間ではございますが、よろしくお願いします。
東尾さんは最初の入学生ですが、その時は校庭の桜の木はいかがでしたか。
東尾 入学して1年ぐらいしてからでしたか……五十嵐播水先生も八重桜を記念して植えて下さったと思います。入学した時は鬱蒼とした山の中に学院があるという感じでした。
20年過ぎた今も頭の中は卒業した時のままで、なんていうのか自分勝手な新鮮さだけが残っている感じがします。卒業して10年余り中央市民病院で働き子供3人を育てるために仕事をやめて家庭に入ったわけです。自分自身が健康だから言えるのかも知れませんが、PTAの役員をしていても、とにかく反応は早いですね。何を言われてもすぐに体が動いてしまうんです。
それから一般の主婦の方は、第1は家庭、第2は外という考えですが、私のように過去に仕事をしていた者は、第一に外、第二に家庭ということになります。かりにPTAの活動にしましても家に持って帰えってする、それが家族に負担になるわけですね、だから時々言われるのですが、お宅の子どもさんはどうなっているのって――(笑い)でもこうした活動も元気だから、健康だからだと思うのです。どこまで続けられますかわかりませんが力を出して頑張ろうと思っています。
司会 開設当時のことですが三人の看護職員だけでしたが、いかがでしたか。
東尾 今思うと家族のような感じでした。全寮制でしたので……。高橋先生も寮ではご一緒でしたから……。
司会 2回生の斉藤さんの時と比べて差というか、何かちがいはなかったですか。
斉藤 大きな差はなかったように思います。運動場の整備にしても1回生がやっているから2回生もやろうと草ひき等をし乍ら今芽生えようとしている歴史を大切にしようと肌で感じました。
東尾 当時の苦しい事は覚えていないのですが、運動場の草引きをよくしたものです。ふつうの草じゃなく笹でしたからひいてもひいても生えてきて……。また、オオアワダチ草がたくさん生えてきて、生物の釜江先生が戸外で学校周辺の草花の名を教えて下さり、楽しかったです。
―昔の学生々活と今の学生々活―
司会 学生々活の変化について話していただきましょうか。
神吉 私たちの時は、皆んなが一緒に食べることに意義があるのだと考えたのですが、最初の頃はどうでしたか。斉藤病院の看護職員と同じ食事でした。朝は寮生の当番がパンを病院の食堂までとりに行き、昼は病院の地下食堂で食べていました。学院から病院へ行く長い石段は、とてもしんどかったワ。
島津 私が病院に来た頃ですが、高い長い石段を、白衣の看護婦さんが行くのを見て、美しいと憧がれたものです。その石段も今は少ししか残っていませんね。
司会 神吉さんは、2課程2科の1回生ですが諏訪山校舎で学んでどうでしたか。
神吉 私達の場合は仕事と学習の両方でしたから、いつも時間に追われ、時間ばかり気にしていたように思います。半数ぐらい寮生がいたけれど、先生方やクラスメートとのふれ合いの中で、コミュニケーションがうまくとれないのではないかと心配でした。諏訪山校舎は広々として、ゆったりしてよかったです。そんな中でこんなことがありました、クラスメートの和をはかるため、日曜日にハイキングでも……という意見が出た時、家庭をもっている人は参加できないということで、どうしたらいいかと悩んでいたところ、高橋先生が、「クラスの友情というのは、家庭のある人に、家庭サービスができるように配慮するのも一方法である。」と教えていただいたことが、教訓として残っています。そうした意味で、私たちは、底辺からいつも皆んなでなんとかしなければ――という意識があったとように思います。
司会 神吉さんのクラスは既婚者が多かったけれど、よく頑張りましたよネ。ところで3年生在学中の学生の方達の入学当初の感想はいかがでしたか。
金田 看護婦さんというのに憧がれて、学校の内容もよく知らずに入ってきたわけですが、ベッドの掃除をするとは思ってもみなかった。(笑い)それで1年生の時、うるさくいわれて……反感はなかったけどすごいなと思った。大学へ行っている人とは、また違ったとてもきびしいものがありますね。でも今となってはよかったと思っています。
滝 私は個人病院で、働いていたけれど、入学当初はとてもしんどかったです。3年次になって、学生々活では、互いに励まし合えることができ、嬉しく思います。
松村 1年生の時、勉強のきびしさが分かるとくじけそうになりました。2年生になりゼミナール等を通して、またクラスの中で、若い人たちに交って頑張りたいと思っています。
一スピーチの思い出一
司会 学生々活の中では、よくスピーチのことが話題になりますが……。
東尾 私は、スピーチは苦痛ではなかったです。今思えば、いいことと思いますね――。
斉藤 スピーチの番がくると緊張して……いやだなあ――と思いましたが、自分の意見を正しく伝えるということでよかったです。私の職場でも実施しています。学院で教わったことが役に立っているわけです。
―クラスのよさ―
司会 学生々活の中で特に感じられたことはどんなことですか。
東尾 学生々活では、私たちは入学するまでは働いている人もいましたから、急に学生になって、何もかも教えてもらうという中でずいぶんとまどいもし、自分の持っている誇りを傷つけられることもありました。言いたいことも言えないこともあったりして……そうした意味から、先生から素直さがないと言われまして……。でもね、学生だけで話し合うと、ケンケンゴウゴウと口角泡をとばす如く言い合いましてね、収拾がつかず、高橋先生に入っていただいて、先生の経験から話をしていただき、収めてもらったこともありました。
松村 とことん意見をたたかわすなんて、羨ましいと思います。私たちは、おさまったような顔をしていますが、実際もやもやしたものを吐き出さないでいるんです。
金田 私のクラスでも、反応がないとよく言われるのです。パアーッとケンカができなくて……東尾さんの話を聞いて、ケンカしても心の中まで出せる仲間がうらやましいです。クラスメートも分かっていると思うんですけどできないのですね。人数が多いからかも分かりません。
藤谷 症例研究では苦しみました。期日に提出できなくて……でも今になって2年間の勉強をもっとしておけばよかったと後悔しています。10年問ブランクがあって再就職したわけですが、分からないことが多くて、みじめな思いをしているので、常に学ぶ姿勢を持たないといけないと思っているんですよ。
滝 初めの2年間は話し合いが持てなかったけど、短い時間にこれだけはしなければ、ということで、3年生になってからかなり自分の思っていることがクラスの中で言えるようになりました。
島津 よく仲のいいクラスといわれましたけど、そしてよく口論もしましたが、今思えば楽しいことです。
神吉 働きながら学ぶということで、どこかで「甘え」があったと思いますが、3年間を通して思うに、プライドとか誇りとかいうものを教わったように思います。それだけに厳しさが身についたように思います。
斉藤 2回生というクラスは、茶目っ気もあり、先生にもよくつっかかりましたけど、チームワークのとれたクラスだったと思います。音楽の先生が、2回生はとても上手だ、気持が一つになっているとよくほめられました。それから、私たちはやりたいことをやったという感じがします。
東尾 そうね、文化祭などよくやりましたし、楽しかったですね.
一学校の行事一
司会 文化祭というのは、今の学校祭のことですが、その他に学校の行事でしたのは、何がありましたか。自治会活動はどうでしたか。
斉藤 前にもいいまましたけど、私たちは何んでも自由にやりましたから、やりたいことをしたという感じがします。だからクラブ活動も活発で、2、3回生で次々と新しいクラブが生まれました。私たちは殆んど全員がクラブに入り、中には1人で3つも4つもクラブに入っている学生があり、そして、そこで熱中していました。中でも兵庫県下の看護学生対抗バレーで優勝した時は、皆んな涙を流して喜こんだものです。
司会 最近は剣道部も、同好会から前進できない状態ですね。課程が分かれているためでしょうか――。一つの課程の方がよく活動されたように思いますね。私は5、6回生の学生に引っぱり出され、六甲山へのハイキングや5月祭(寮祭)で運動会があり、アミくぐりなどよく参加しました。また学生は、講師の先生方にも、よくあちらこちらにご一緒して頂きましたね。生物の釜江先生や、社会学の西村先生は山登りがお好きでしたから、日曜日には学生と一緒にハイキングとか、飯盒炊さんに行って下さいましたね。当時は学生数も両方あわせて、50名ですから……こうしたことも自然にできたのでしょうね。
東尾 そうそう、図書の本がはじめ新しいものばがりで……。当時文学の鈴木一郎先生に整備の仕方を教えていただき、本をそろえたものです。
―居眠りの予防には―
東尾 講義のことですが、私は入学してから6カ月はとても苦しみました。それというのも椅子に坐って90分講義を聞くということが苦痛で、ついには居眠りが出まして……それで昼ごはんをぬいて、居眠りを防こうとしました。クラスの中には、メガネをはずしてねる学生がいたり、はずみで机がガタガタとなって、あわて隣りの学生を起こしたりして……、でも国試には全員通ったんだから講義は聞いていたのでしょうね。(笑い)
神吉 私たちも仕事をしているということもあったのでしょうがよく寝ました、でも不思議とテストの前になるとみんな一斉に起きて、先生の話を聞いていました。(笑い)
東尾 全寮制でしたから受験期になると、ねている顔にキリフキをかけて起したり「栄養学のカメノコウのこと分からへん」と言って泣き出す学生もいました。一晩中起きて勉強しすぎる学生もいましたね。
司会 松村さんは寮ですが、この頃はどうですか。
村松 クラスメートが同室の場合だとお互いにそんなことができるのですが、そうでない場合は、他の部屋の人に頼んだりします。でもやはり、遠慮があって思うようにできないです。
―42年の災害―
司会 学校の20年の歩みの中で、42年7月9日の災害は最も大きな事件だと思います。私は通勤でしたのと、山崩れは夜でしたので翌日高橋先生からお聞きしたことですが、その時一番困ったのは、寮生をどうするかということと、学籍簿等の書類をどうするかということでした。意気消沈している中で、7回生の人たちが勇気づけてくれたことは、今も心に残るほど力づけられたとのことでした。この水害の後が筆舌に絶する思いでした。ものすごい日照りと、水と、泥と、蚊との戦いの毎日で、丁度新幹線の神戸トンネルの工事に入ろうということで待機されていた奥村組の方が困っている私たちを見て、泥を運び出して下さり、とても助かったんですよ。丁度この災害の時にいた7回生の藤谷さんにその時の感想を話していただきましょうか。
藤谷 あのような水害は、私の生涯のうちにも.一度か二度あるかないかだと思います。よく看護婦は、とっさの時に機転をきかすことは大切だと言われますが、あの時ほど、身にしみてその重大さを感じたことはありません。ある学生が教室の中へ荷物をとりに行ったんです。そしたら、私も私もと後に続く学生が居ましてね、その時私が高橋先生にそのことを言ったら“山がくずれてくるかも知れないから絶対に教室に行ってはいけない"といわれ、それを学生に伝達して、行くことをやめたんです。その直後にあの土砂崩れがあって、学校が埋まってしまったんです。ほんとうに数秒の差でした。私はその時、高橋先生の指示があったから、ほんとうによかったと思います。それから私はいつも、貴重品袋を作って、大切な書類など入れているのです。今思えば何もお手伝いできなかったけれど、私としてはとてもいい勉強になりました。
斉藤 私も丁度家に帰っていてその場にはおりませんでしたが、その時のエピソードで、当時学生が大事に飼っていた犬のクロが泥の中から飛び出してきた時は、みんな思わず歓声をあげ喜んだとのことです。ものすごい土砂崩れで、クロは死んだものと思っていましたから。今でもその状態が目に映ります。また当時は8月が卒業でしたから、私と林先生と二人で泥水出しと、学割証の発行で文字どおり、泥まみれの毎日でした。とにかく1年生は帰省させて、2年生の卒業だけはと頑張ったものです。
藤谷 その後、寮生の.一部が玉津療養所の寄宿舎に移りましたネ。スクールバスで先生方と一緒に通っていました。学生には、分からないご苦労があったと思います。
司会 災害のことになれば、いろいろと想い出はつきないと思います。このへんで少し実習のことについて話していただきましょうか。
―実習病院の昔と今―
東尾 1回生は初めてでしたから受入れ側もかなり緊張していたようです。私たちは、言いたいことを言っていたように思いますがよくしてもらいましたよ。学院側の指導と、ちぐはぐな面があり、学生同志でブツブツ言っていました。
神吉 今思うと、看護用具の整備、患者さんの調整など大変だなということがよく分かります。また学生の時は、自分のことしか考えなかったけど、患者さんに迷惑がかからないための配慮がずいぶんされているんだということがよく分かりました。また学生の頃は、あの看護婦さんは省略したやり方をしているなと思ったものですが、今学生を受入れると思っただけで肩がこるほど気を使います(笑い)。西市民病院は実習を受入れてから年数もまだ4年目に入ったばかりですが、設備も人数もそろってきたので、少しは恵まれているかと思います。
松村 スタッフの人たちが、私たちのためにやって下さっているのは分かるのですが、それについていけなくて。それに積極的にできない――。そんなことを残念に思っています。
金田 学校の先生や実習指導者の方が、ハラハラしながら見守っているとか、実習しやすいように配慮しているのがよく分かるんです。予科期実習の時のことですが、ベッドの掃除をしていると、汗がベッドの上に落ち、それを拭いていいかどうか迷うくらいカチカチに緊張しているんですネ。そんなきびしさの中から一つ一つ積み重ねて、何も知らなかった自分が、患者中心に考えなければ……というように変ってきたんですね。
滝 何気なくしているように見えても一つ一つやることを、認識しなければならないということは、実習で患者に接していてよく分かるん。
島津 看護計画が立てられず、問題点は何か聞かれ答えられず、つらかったです。
一母校に望む一
司会 残り時間が少なくなりましたが、最後に母校に対して、何か一言づつどうぞ。
神吉 この学校で学んだことをいつまでも誇りにしたいと思っています。私が看護学校の先生にお願いしたいのは、若い先生の中にはびしいだけの方がいらっしやるが、私たちが困っている時に励ましてくれる、そんな先生であってほしいと思います。
藤谷 布引とか、中央市民病院という名を聞くと、すぐ母校のことを思い出します。学校の名をはずかしめないよう努力していますので、先生方、学生の皆さんも頑張ってほしいと思います。
斉藤 臨床にいて、しみじみ思うことは、人との関わりは、相手の気持を考えてから動くことですね、今でも私は、神戸市立の看護学校の卒業生ですと誇りをもって言えるんですよね。それを汚さぬように心がけたいと思うし、又長く続くように頑張りたいと思います。これからも学校が大きく発展して欲しいと遠くにいても、支援する気持でおります。
私は今日、広島くんだりから来たのは、この学校で学んだことが最近になって役立っているからなんです。前にも話しましたが、スピーチにしても、又、ベッドメーキングにしてもあれだけ時間をかけて学び苦労した意味が分かり、それを実践している自分を知ってほしいと思ったからなんです。だから学生の皆さんも反発したいことがあったり、分からないことがあったりするでしょうが、必らず将来分かってくるし役立つと思うので、今の苫しさをのり越えて欲しいと思います。
島津 私は今年から実習指導者(専任)となったわけですが、自分自身が人間的に成長して実践できるようになりたいと思います。
滝 先輩の話を聞いていて“歴史"というものを感じました。ここで学んでいる私たちは恵まれており、学生々活を有意義に過したいと思います。
金田 20年といえば私が生れ育った年月と一緒です。先輩たちの苦しみが校舎のあちこちに残されていて、それも知らずに過ごしているわけですが“看護の心"は受けついでしっかり頑張っていきたいと思います。
松村 ここに人学して1年半たちますが、ふり返ってみて先輩たちに恥じないようにもっと勉強しなければと思います。
東尾 私は今の学生さんに“悩むことなんかなかった"ような話しぶりをしたかと思いますが、そうではなくてあなた方と同じように悩むことも多かったのですよ。それは分かってほしいと思います。今になると“思い出”は楽しいことになっているのですよ。
私は自分よりも現在の学生がどっしりとしているから、今の学校があるんだと思っています常に病院と一緒に学校もある。この布引は私の青春があるんだと思っています。今日ここに招いていただき、あの石段をホィホィと上って来たのですが、母校に来られるということで嬉しかったです。この場を与えられた私は幸せで一回生のクラスメートには申しわけない気持で一杯です。
司会 今日は優等生の人たちばかりの集まりの話でしたが、もっと裏話も聞かせてほしかったです。(笑い) この11月には20周年記念式典を相楽園で開き、その時には学校祭もありますので、ぜひ同窓生お誘い合せおいで頂き、今の学生達と大いに交流をもって頂けば幸いと思います。お忙し中、長時間ありがとうございました、これからの皆さんのご健康とご活躍を期待して終らせて頂きます。
(文責佐々木、井上)
